Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

ベタなネタ

indigoworks 6月10日の記述 で眼にした 新世紀のコミュニケーション方法 という言葉をとっかかりに 昨日の日記 でハモネプについての感想をちょっと書くとともに、そのように感じてしまう僕の感性が、まるで新世紀のコミュニケ的ではないでんぱてぃっく & アナクロい発想に基づいているのだなぁ、というようなことを述べたのですが、若干の補足をば。

ついつい言葉ばかりが先走って否定的なことばかりを述べてしまいましたが、ハモネプ、僕などには真似しようもない技術や、考え抜かれたアレンジ等、大変すばらしいと思います。正直、ちょっと大げさにいいすぎたなぁ、と反省しております…。ので、今回はもすこし一般的なお話。

「ベタ」っていうのは、昨日の日記でリンクした 宮台真司の発言 を参照していただくとわかりやすいと思いますが、言い換えを試みてみましょう。

歌を例に取ると、いまのようにカラオケが一般的になる以前には、ひとまえで歌をうたうことはそこそこ勇気が要る行為だったのではないかと思います。それが、現在では「カラオケ・ボックス」というどこにでもある場でありさえすれば、上手・下手を問わず、多くのひとが歌をうたうことにそんなに抵抗を感じないでしょう。その結果、必然的に歌唱力の底上げが進み、歌のうまいひとというのが増えてきているということもかなりあり得る話だと思います。

なにをいいたいか。その「歌のうまさ」ってなぁに? ということなんですが、端的にいうと、物真似がとっても上手なひとがそれが「物真似」であるということをまったく認識しないままに得意顔している様は、ちょっとアレなのではないかな、ということ。かといって、「オリジナル」なるものを標榜することも容易ではないし、そもそも「おりじなるってなぁに?」という感じなわけですね。

話が飛びますが、今般の状況を大所から大雑把に捉えるに、やっぱり世の中の景気が悪いからか、テンパり気味な殺気立った雰囲気を感じてしまいます。また、'90 年代から今世紀初頭にかけては、東浩紀が随所で述べているように、'80 年代のイデオロギーとしての「ポストモダニズム」は潰えたが、「ポストモダン」な状況は年を追うごとに深まっていると思います。どういうことか。細分化されすぎて誰も全体像を把握できない社会では、往々にして価値判断の基準が自分の感性や、たまたま自分が属することになった集団、接するメディアにおいて支配的な価値観等に過度に依存しすぎるきらいがあるように思われます。また、確固たる指針を求めて、見掛けだけは論理的であるかのような言説(歩き煙草は、煙草を持つ手の位置がちょうど子供の顔あたりになるので危険だからダメ、とか)にも囚われがちなのではないか。「テンパり気味」というのはそういう余裕の無さを指していってるわけです。ハモネプの「ベタ」さ、というのもそういう状況と無関係ではないと思うのですが。

例えば浅田彰は「原宿フラット」というイベントに於いてこのようなことをいっています。

僕のような旧世代は、なにかが好きであると同時に嫌いである、あるいは、岡崎さんの話で言うと、共同体の習俗は不可避であるがそれに居直るべきでもないといった、ある種の二重性が、考え方の基本にある。それは、ある場合には対象へのアイロニーとして現れるし、自分自身に向けられた場合にはシニシズムとして現れる。

美術手帖」 2001 年 2 月号 p.174 より

テンパり気味なひとを見苦しく思ってしまうのは、このようなアイロニーやシニシズムをそれとして受容する余裕がないように見受けられるからなのです。あたりを常に見渡すこと、相反する思考をともに楽しむこと、奢らないこと、そしてたまには全てを忘れて突破してしまうこと。「ネタ」というと、ちょっと 2 ちゃんねる風な感じを受けてしまう(?)のですが、「あえて?する」ことの意義をもういちど見直してみたい、と思いました。

…とはいえ、話が「ホームページ」のことになると、「う…」という感じ。ごめんなさい。許してください…。僕のようなヘタレの日記サイトなんて、駅前のゆず歌いとなんら変わりはないですよね。あはは。というのが、「シニシズム」なんですよ、といって逃げを打ってみるテスト。