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Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

「文学2.0 余が原文一致の未来」(『思想地図β3』所収)感想メモ

市川真人氏による論考「文学2.0 余が言文一致の未来」が、非常に面白かった。主体の隠喩としての文体(バルト)から、隣接に基づく換喩から立ち現れる「舞踏としての言語」という論旨は鮮やか。吉本隆明『初期歌謡論』や、二葉亭四迷による言文一致をめぐる実験の例を引きつつ、日本文学に潜む形式性を肯定的に再解釈し、新時代への希望を見出す。

とはいえいくつか疑問に思うのは、著者は、296ページから、多数の文学作品による換喩的な文章の連なりを実演してみせるのだが、そのような文学的な実演よりも、普通に考えて(ネットにも言及しているのだから)ここではTwitterが想起されるところだろう。事実、タイムラインという雑多な発言の隣接から、詩のようなものが生まれることが、ないわけではない。

しかし、換喩的な言語による「文学」が書かれたとして、それは本当に読まれ得るのだろうか。冒頭に引かれた『ONE PIECE』が、その読解困難を解決するために持ち出すのが、くりかえされる「海賊王に俺はなる!」という目標の確認、そして「名言」であることは既に著者が指摘しているところだ。「新しい文学」には、何か別の戦略があるのだろうか。そうでないとすれば、それはただの貧困ではないのだろうか。

最後に唐突に持ち出され非難されるように見える、野田総理による原発再稼動についての「 換喩的」な言明。その「悪しき意味での「文学」」と、Twitterなり、著者の実演なりとに、どの程度の差があるのか、何がその差を担保するのか、著者の論からは何も見えてこない。もっというと、本当にそこに差異はあるのだろうか?希望はあるのだろうか?

もし「換喩的」な「詩」が、野田的非論理については措くとしても、繰り返される単純なメッセージや通俗的な「名言」にのみ読解可能性を頼る、つまりはただの現状追認に堕してしまうぐらいなら、バルト的な主体の隠喩としての「文体」の方がずっとマシだと思う。「舞踏としての言語」に、本当に新しい文学が可能なのか。実例がまたれる。

余談。

10数年前、パソコンを所有せず、Webの実物も見たことがなかった時に、ハイパーリンクってのがあるんだと知って、じゃあ、全ての文章を他の小説、もっと広く書籍全般から取ってきたものだけで作品作ったら面白いんじゃないの、と思ってやってみたことがあるけど、当然なにも面白くなかった。

日本2.0 思想地図β vol.3

日本2.0 思想地図β vol.3