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Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

「古道具、その行き先 - 坂田和實の40年」展

古道具、その行き先 - 坂田和實の40年

松濤美術館で10/3から開催中の、坂田和實展へ行ってきた。坂田和實さんのお店にうかがった時の話は以前のエントリに書いた。そこで、10月に展覧会があるとうかがったのを思い出したので、今日行ってきたのであった。展示されているのは、いずれも坂田さんが取り扱った品だが、いまはもう売れて人手にわたったものを集めてきたものだという。古今の、木彫りの人形から古い布切れまで、まさに「坂田和實の40年」という品揃え。とても満足した。

著書『ひとりよがりのものさし』に、こんなエピソードがある。ある日、店にやってきた女性に「オジサン、これも拾ってきたものなの?」と不躾に問われてムッとするが、考えなおしてみると、「オジサン」であることも「拾ってきたもの」であることも本当だ、悪いことをしたという。先日うかがった時も、「その辺から拾ってきた」と普通におっしゃっていたし、著書の他の場所でも「ここにあるものは、店の中にあるから商品だけど、店から一歩出たらガラクタ」と書いてある。

とはいえ「そうか、ただ拾ってきたものを売ってるだけなのか」と、素朴に受け取ってはならない。拾ってきたものを商品として、しかも、それなりに高い値段をつけて売ることには、それだけ自分の審美眼に絶大な自信がないとできないことだろう。坂田さんは飄々と「拾ってきたものだから」というけれども、その裏にあるものを見ずして、美意識の研鑽なくして、我々が同じような境地に至ることはできないだろう。今回の展覧会では、そのことをあらためて思ったのであった。

以前、うつわ特集号のCasaで、村上隆さんが坂田和實さんを評して「ゴミを拾ってきて売る商売」といっていたことがある。それはなにもけなしていっているのではなく、ある種の敬意を持っているからこその、直截的な物言いであったのだろう。事実、村上さんは坂田さんの店で、今回の展覧会でも展示されているような雑巾だかコーヒーのドリップ布だかを買っていったという。鋭い審美眼のみが、いままで存在しなかったコンテキストを無から生み出すこと、それがアートの営みであることを強く訴えている村上さんだからこその発言だと思う。

余談だが、ついでに。松濤美術館は、建築家・白井晟一の晩年の手によるものである。白井晟一の建築に、僕はいつも奇妙な違和感を感じて、全面的に好きだということはできないのだけど、なぜかひっかかってしまって、ついつい気になってしまう存在だ。白井晟一についても、先日坂田さんに少し話をうかがったのだが、その建築をあまり好んでいないのだとおっしゃっていた。確かにそうだろうなあとは思いもするのだけど、自分ではまだうまく説明できないけれども、坂田さんの審美眼と白井晟一の建築とに対する僕の感じ方は、そう遠くないところにあるという気がしている。

ひとりよがりのものさし

ひとりよがりのものさし

Casa BRUTUS ( カーサ・ブルータス ) 2010年 05月号 [雑誌]

Casa BRUTUS ( カーサ・ブルータス ) 2010年 05月号 [雑誌]

白井晟一 精神と空間

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