Subscribed unsubscribe Subscribe Subscribe

Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

リーダーシップを発揮するのは誰か?それはどのようにして可能となるのか?

マネジメント

一般に「リーダーシップがあるひとをリーダーと目する」と考えられているのとは反対に、公式組織上の役職はリーダーシップを不要にする。正確には、リーダーシップがあるから役職につくのではなく、役職がリーダーシップを根拠付けるのである。

そもそも、いちいちの案件についてリーダーシップを発揮しなければ仕事が進まないようでは、組織は回らない。そのため、役職を設置し、その役についている者に周囲が自動的に付き従うことを、役職者もそのフォロワーも期待することを公式化するのである。ここまではルーマンのいう通り。

しかし、現代のビジネス環境は、公式化された期待が頻繁に揺り動かされ、充分に機能できないほどの不確実性がある。もちろん、組織もそれに対応してあれこれと変化しているわけだが、それとともに、従来のリーダーシップをさらに広く取り、役職 = 管理者 = マネジャーとは別の非公式的要素として、さらには、誰もがそれを発揮するべきこととするのが現代のリーダーシップだろう。

さて、そのようにリーダーシップは誰もが発揮するものであるとされているにも関わらず、

  1. 現に取り上げられる事例は、既にリーダーとしてことをなしとげた人物に取材したものである
  2. 具体的にどのような仕組みや考え方があれば「誰もが」そのような性質をもてるのかについての考察が希薄である

という問題がある。

(1)については、実際の優れたリーダーに取材したエピソード的な記述についてはもとより、一般的にいっても、組織外部からの観察になる以上しかたない面がある。なにかを成し遂げないことには、リーダーシップが発揮されたかどうかがわからないからだ。つまり、成果から事後的にリーダーシップについて検討しているのである。

そのような限界により、(2)のような「誰もが」リーダーシップを発揮し得る仕組みや考え方について、説得的な材料を提供できていない。事後的な観察は「事後」なのであるから、その時には既にリーダーは「いかにもリーダー」なリーダーとして完成されてしまっている。そこに問題があるのだ。

つまり、事後的な観察からの教訓や類型や理論にはもちろん得るところは大きいだろうが、これから「誰もが」リーダーシップを発揮するために役立つには、その有用性は限定的である。なぜなら、そうした教訓等の理解によって「誰もが」そうした観察がいうところのリーダーになることはあり得ないし、望ましいことでもないからだ。

私が目しているのは、事後的にふりかえってリーダーシップを発揮した優れた人材のような者を作り出すことではなく、我々のような普通の人間が、いつの間にかそれなりに有用なリーダーシップを発揮してしまうような仕組みを構築することだ。それは適切なリーダーシップ定義(これは過去の知見が大いに役立つ)と、有効に機能する「仕組み」によってしか成し得ないことだろうと思う。

公式組織の機能とその派生的問題 上巻

公式組織の機能とその派生的問題 上巻

リーダーシップ入門 (日経文庫)

リーダーシップ入門 (日経文庫)