Subscribed unsubscribe Subscribe Subscribe

Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

2016年1月4日

日記

8時過ぎに起床。メディテーションを20分ほど。する前にNewsPicksを見てしまってあれこれ考え事がでてきたせいで、頭にもやがかかった感じ。山下良道さん的にいえば、青空が雲で覆われてしまっている感じ。しかし、しばらくやっている内に、だいぶ雲が晴れてきたような気分になる。最近、うまくいってる。

昼食は海浜食堂たけだでカキフライ定食。

夕方、グループ全体での新年会。グループ代表の所信を聞いて、そうだよなあ、がんばらないとなあとあらためて思う。その後、すごいゲストが出てきて盛り上がった。

帰宅して、しばらく中国語の言文一致運動について昨晩ネットで拾ってきた文章を読む。

なんでそういうことをしているかというと、言文一致がない言語を使ってる気分を知りたいからだ。どんな感じなんだろう。あるいは、書き言葉のない言語について。中国語を使える台湾のひとが文章を書くときは、話し言葉で台湾語を使っていても、中国語のみで事足りるから、台湾語で書けないことに困ることはないみたいなことがいわれるけど、ほんとなのかな。

古代、日本語のための書き言葉がなかったとき、日本人は何かを書くときに、話し言葉とは全然別の漢文を書いていたわけだけど、それがどういう気持ちになるのか、というのがあまりよく理解できない。こわい感じがする。でも、いまでもそういう言語で、実際に使われているものはたくさんあるんだろう。

その後の日本人は、漢字かな混じりの文章を書いているから、中国語だと漢字によって、読めはしないまでもなんとなく近いイメージがあるけど、たとえばいま、日本語に書き言葉がなくて、話し言葉は日本語なのに、書くのは英語でしか書けないとしたら、どういう気持ちになるのかな、という興味があるのである。この辺は、山城むつみさんの『文学のプログラム (講談社文芸文庫)』の話。

文字化けした文章を見るとゾワッとするひとは多いと思うのだけど、それって、初めて書き言葉としての漢文をみた時に日本人が感じたことと似てるんじゃないかなと思う。わけがわからないが、なにかが意味されてるらしいし、自分もそれを使わないとならないようだけど、意味がわからないという。発音がまったく想像できない言語を、文法的な知識だけで習得し、その言語でしか書けないという状況を作り出せば、気持ちがわかるのかもしれない。

そういう体験を与える文章を書きたいと思う。などと思いつつ、『「星の王子さま」をフランス語で読む (ちくま学芸文庫)』を読了。