Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

2019年2月10日

埼玉県立近代美術館で行われている「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史」を観に行く。入り口から、ピエール=ジャン・ジルーによるMetabolism # Invisible Cities # Part 1. で度肝を抜かれる。「あー、なんか映像が流れてるな。どれどれ……え、え、え???東京湾岸に、黒川紀章のヘリックス???と思いきや、磯崎新の渋谷計画??????なんだこの映像は!!!!!!????」という感じ。

この展覧会自体は、いわゆる「アンビルト」と呼ばれる、様々な理由によって実現しなかった、あるいは、そもそも実現を前提としていない夢想的な建築計画について、たくさんの資料や、新たに制作された模型、映像等によって構成されたもの。その博捜ぶりは非常に浩瀚であり、アヴァンギャルド期のロシアから、ミース・ファン・デル・ローエのようなモダニズムの巨匠、日本建築のあまり知られていないような人々から、名のしれたメタボリズムの面々、現代建築につながる大きな構想まで、非常に素晴らしい内容。ここ数年で観た展覧会でも筆頭のでき。

夜は、アルザスの、ゲヴュルツトラミネール種を用いたかわった白ワインを飲みながら、『ヨーロッパ近代史 (ちくま新書)』、『インポッシブル・アーキテクチャー』を読む。

2019年2月9日

夜、銀座のESqUISSE(エスキス)へ。数日前に電話をかけてみたら、思いのほかさくっと予約が取れて運が良かった。コースと、ペアリングのワイン。料理が意外なほど和テイストで驚く。合わせたワインも、リーズナブルなもの中心でありながら、ぴったりでよい。

2019年2月6日

朝、歯医者いったあと、いろいろ決議からの開示等。

夜は、The Wineでワイン飲みつつおしゃべり。そこから、マクドナルドで時間つぶした後に、ソフィ・カルの「Voir la Mer 海を見る - Shibuya Crossing」を観に、スクランブル交差点へ。ビズリーチさんが協賛したことで実現した取り組み。こういうのやってみたいよなあああああああ、と思う。

落合陽一「質量への憧憬 〜前計算機自然のパースペクティブ〜」展評

落合陽一氏は未来に生きている。数年後というほど近くはないが100年後ほど遠くもない、現在からはそれぐらいの間隔のある時に居る。その未来からの視線が、たまたま我々が時間の先頭だと感じている今に焦点した視点に、ライカM10といくつかのオールドレンズというフィルタを通して現像された表象が集められたのが、2019年1月24日(木)から2月6日(水)まで開催されている写真展「質量への憧憬 〜前計算機自然のパースペクティブ〜」である。

本展は、落合氏の著作同様に、controversialであると同時に抗いがたい固有の魅力を持った内容となっている。近著の『日本再興戦略 (NewsPicks Book)』、『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』での東洋思想の導入ぶりや、あらゆる対象がコンピュテーショナルになる計算機自然(=デジタルネイチャー)、具体的には機械と人間の差すらも無化される、計算機ネットワーク上においてこそ華やぐ多様性の、しかしいまの我々から観るとほの暗いヴィジョンの、甘美さ。

鉄に触れている時に、これがピクセルの鉄だって一瞬でも思ってから触ったんだったら、それはもう既に純粋な鉄ではない。あくまでピクセルの鉄で、データとしての鉄と、フィジカルな鉄と、ピクセルの鉄というのが、脳内でもう識別不可能になっているから、「完全な記述はできないけど、鉄の何らかの表現型だと思って触ってる」みたいな。その脱構築的な感覚が日に日に強くなってくるんですよね。

(『脱近代宣言』p.36より)

落合氏の多数ある書籍においても例外的な、「奇書」と呼ぶべき『脱近代宣言』には、氏が既にほぼ脱近代(=本文書の冒頭に述べた「未来」)にいるということが読者にとっても明らかに理解できる発言が満載されている。上記に引用した発言などは、そのわかりやすい一例である。本展における氏は、そのような視座からの視線により、我々が生きる現在を、根こそぎ侘び寂び化してしまおうとしているかのようだ。しかし、なぜそんなことをしているのだろうか?

やるべきことは「人による近代」を終わらせる、ということです。つまり、新しい自然観の構築。一言でいえば、これが僕のライフテーマです。

(『脱近代宣言』p.60より)

上掲書ではこのように述べられていた氏のミッションは、氏の社会彫刻の実践として実行されていく。そして、本展に出品された作品群は、その過程で氏が見てきた風景なのだという。

僕の作品のキーテーマである映像と物質はその橋梁をになうメディアアート的な表現だ。そういった写真の中で、大切にしている価値観やベースになった記憶、それが接合したり外在性を得たりしながら出てきた表現、そして浮かび上がった表現を作っていく。その端々に散りばめられたのは、社会彫刻を作ろうとする僕が見てきた風景だ。

(会場内に掲示されたマニフェストより)

2018年2月10日(土)~24日(土)に開催された会田誠氏の「GROUND NO PLAN」展において、会田氏はヨーゼフ・ボイスについて、沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」の替え歌に乗せて「あんたの時代はよかった。芸術家がピカピカの詐欺師でいられた」と表現したが、その1年後の本展においては、落合陽一氏によって「社会彫刻」がマジなミッションとして回帰する。その良し悪しについてわたくしは意見を持たないが、いずれに対しても、ある一定の距離を置きながらも、共感を覚えるのは確かだ。

現に表象された作品群に観られる美意識そのものだけを評価するならば、本展はいわゆる廃墟趣味の展開というべきなのかもしれない(実際、そのような趣味を同じくする者にとっては垂涎ものではあると見える)。しかし、「我々が生きる現在を、根こそぎ侘び寂び化してしまおうと」する行為そのものが、現在をしか生きられない、落合氏ならぬ我々の眼を根底から変えてしまおうという、それこそ社会彫刻の実践そのものであると考えれば、本展への評価はまた違ったものにならざるを得ないだろう。

ソフトウェアエンジニアとして成長するために自分を見据えること

先日、鹿児島で行われたq-tech Meeting X #1というイベントのパネルディスカッションに参加させていただきました。テーマは、アウトプットを通じていかにエンジニアとして成長していくかということについて。その中で様々な論点とやり取りがあったのですが、このエントリでは、時間の関係もあって話せなかった内容について、簡単に紹介したいと思います。

上記のツイートは、当日のパネルディスカッションの様子。左から、わたくし、株式会社W・I・Zの松岡さん、SYNAPSEの中野さん、リモート参加のさくらインターネットの松本さん(が映るMacをかかえるペパボのpyamaさん)。

そもそもなぜ鹿児島で話しているのかというと、「GMOペパボが鹿児島にエンジニア部門の地方拠点「GMOペパボ 鹿児島オフィス」を開設 〜テクノロジーをキーワードに人や企業をつなぐハブとなり地域と共に発展する企業を目指す〜」というプレスリリースを出した通り、新たな開発拠点として鹿児島オフィスを開設したタイミングで来鹿するタイミングが合ったからだったのでした。

競争心という共通項

さて、そのパネルディスカッションでわたくしが話したかったこととは何か?その前に、前提を簡単に書いておきます。パネルディスカッションの前には、いくつかのトークセッションがあり、エンジニアのアウトプットという文脈では、松本さんによる「企業に所属するエンジニアとしての社内と社外の実績の重ね方」、および、pyamaさんによる「学び続ける努力」という発表がありました。それぞれに素晴らしい発表で、大いに共感するとともに、昨今の自分の至らなさを改めて自覚し、反省したのでした。

その両者に共通する部分をあえて見出すとすれば、松本さんについては同日に行われた別の場所での発表内容、pyamaさんについては前述のスライドp.29にみられる「競争心」というワードを用いて自分のモチベーションを表現している箇所。もちろん、競争心のみがモチベーションというわけでないのはスライドからも明白なのですが、ここではあえてそういうフレームで論じてみましょう。

快楽という別軸の志向

パネルディスカッションでわたくしは、両者の共通点をそのようにいささか単純化のそしりは免れないとしても、話の進行のため簡潔にとらえた上で、少し違う話をしました。すなわち、わたくし自身にもそれなりに強い競争心はあるでしょうし、そもそもおふたりを間近で見ていて多大な敬意を抱いているという前提があった上で、当該イベントの観客のみなさんや、あるいはスライドやブログの読者にはいろんなタイプの人々がいるでしょうから、もし自分には彼らほどの競争心がなかったとしても、別のやり方もあるのではないか?という内容です。どういうことか?

競争心というのは、目標とする人物と自分とを比較して、彼・彼女を上回りたいということであったり、あるいは克己ということでいえば、過去の自分をいささかでも超えたいという、自己成長への強い気持ちということでありましょう。すなわち、いまここの自分ではない誰かと比較の上で、自らの立ち位置を捉えているということだと思います。その一方で、自分自身の好み、もう少し別の言葉を使うと快楽を感じるポイントをつきつめていくという方向性もあるでしょう。自分が競争心が薄いタイプだったとしても、快楽をつきつめるというモチベーションを強化していく方向もあるだろうと思います。アウトプットを通じて成長していくことについても、自分の快楽を感じる方向を極めて行くという考えもあろうかと思うわけです。

もちろん、競争心を満たすことが快楽なのであるというメタな話もできるのですが、ここでは、モチベーションの源がどこに発するのかの理念型について話をしているので、メタな議論はいったんおいておきましょう。また、どちらかともいえない・場合によるということもあり得ますが、もとより二分法の乱暴さと、だからこその簡潔さ(=話のわかりやすさ)というのもありますので、そこは「強いていえばどちらか?」ぐらいのことだとお考えください。

社会とどう関わるか?

さて、ここまで個人のモチベーションとして競争的か、快楽的かという話をしてきました。そもそも、この話のテーマである「アウトプットを通じていかにエンジニアとして成長していくか」という話でいうと、松本さんのトークでも語られているように、所属する組織内や技術者コミュニティとの関わり方、ひとことでいうと「社会とどう関わるのか?」ということについても、戦略的に考えていきたいところです。

その際に使える考え方として、企業の成長戦略における2つの軸を参照してみたいと思います。すなわち、どこにポジションを置くかという軸と、何を強みとするかという軸のふたつです。前者は、いわゆるポジショニングです。ひとくちにエンジニアとしてのアウトプットといっても、やるべきことは無数にあります。その中で、どこで、何についてアウトプットするのがいちばん効果があるか、そういう考え方から入るということです。ふたつめの軸は、何を強みとするか、すなわち、自分が何を得意で何があればひとより上回れるのかをつきつめていくということです。

後者の、何を強みにするかという話はイメージしやすいだろうので、特にこれ以上の説明は不要だと思います。一方、前者のポジショニングについては、この文脈ではややわかりにくかろうので簡単に述べておくと、ごく単純には、ひとがやりたがらないことや、得意なひとがいないようなことをやるというやり方です。その話については、以前、組織内で比較優位をなことを見極めようという話をしたことがあるので、そちらをご参照ください。

そのふたつは、もちろん排他的な関係にある性質のことではないので、両方をともに実行することは可能でしょう。ここでもまた、前提としたいのは、「強いていえばどちらか?」ぐらいのことです。自分の、ひととの関わり方の癖みたいな話だと思っていただけるとよいでしょう。

エンジニアの成長イメージの分類

以上の話を2×2のマトリクスに整理した上で、エンジニアの分類を行います。さらに、その4種類のエンジニアのタイプそれぞれが、どのように成長イメージを描いていけばいいのかについて、簡単に述べます。以下の表は、横軸がモチベーション、社会との関わり方の軸です。繰り返しになりますが、ピタッとあてはまるかどうかより、「強いていえばどちらか?」ぐらいで自分がどこに近いかを考えてみるとよいでしょう。

エンジニアの分類と成長イメージ
競争的 快楽的
ポジショニング 勝てそうな領域を見つけ、目標を超える努力をする。 自分にとっても世の中にとっても、新しい領域を追い求める。
強みの開発 ある領域について突き詰め、目標を超える努力をする。 自分の楽しいと思う領域をひたすら突き詰める。

競争的・ポジショニング: このタイプのひとは、世の中において認められるなにかしらを為すことが成長であるというタイプでしょう。すなわち、何をやるかというよりは、どう認められるかということなのですから、自分が勝てる領域をみつけ、目標を定め、それを超える努力を積み重ねるというのが最も効率的な成長戦略であると言えます。一方で、その領域を大きくとらないと、お山の大将に過ぎないことにもなりかねないので、注意が必要でしょう。

競争的・強みの開発: このタイプのひとも競争的ではあるものの、どんな領域であってもひとより秀でてさえあればいいというわけでなく、自分が好きな領域において勝ちたいというタイプです。自分がそういうタイプだと自覚しているひとは、そもそもその領域において競争すること自体が楽しいと思えるような、そんな何かを見つける必要があるでしょう。

快楽的・ポジショニング: このタイプのひとは、モチベーションとしては自分にとって楽しいかどうか次第ではあるものの、単に自分が楽しいだけでなく、世の中においてイケてるかどうか自体も楽しさの中に含まれるタイプです。すなわち、次々に新しいことに取り組むことの、成長曲線の急激な角度そのものに中毒しているようなひとです。一方で、単にあれこれ手を出すだけでものにならないことにもなりがちなので、注意が必要でしょう。

快楽的・強みの開発: このタイプのひとは、人との関係においてどうであろうと、自分が楽しいと思えることをひたすら追求したいというタイプです。「好きこそものの上手なれ」という言葉が最もよく当てはまります。イメージしやすいタイプではあるものの、一方で、その「好き」の度合いが自足的な基準にとどまり、努力を怠ると、自堕落と大差ないことにもなりかねません。

個人的な話

そんなことを書いている自分自身はどうなのかというと、「快楽的・ポジショニング」に最も近いという気がしています。競争心がないわけではない、というよりも、それなりに強いとは思うものの、それなりに強い競争心を遥かに上回るほど、楽しさ・新しさ・知的好奇心を満たすことの欲求のほうがずっと強い、そんな感じです。一方で、自分の強みを見定め、育てることについては、相対的に興味が薄いと思います。それよりも、ひとがやっていないことや、得意なひとがあまりいないことにチャレンジする方が効率的であるという、ある意味では打算的な面もありますし、そういうのが上手な方でもあると自認しています。

一方で、上記した通り、「単にあれこれ手を出すだけでものにならないことにもなりがち」であることについては自覚しているところでもあります。また、快楽のレベルを自分の中で高めていかないと、単なる自己満足にもなりかねなと思います。わたくしは最近ワインに凝り始めているのですが、たとえていえば、単に美味しいといってがぶがぶ飲むだけでなく、繊細な香りを嗅ぎ分け、味わいつくせるように自分の感覚を高めていくことが必要だと思っています。快楽の解像度をひたすら上げていくということです。

おわりに

ここで重要なのは、そもそも自分がいかなるタイプのエンジニアなのかを知り、適切な戦略を選択することが、何をどうやるかよりもっと重要なのではないか?ということです。当然のことですが、どのタイプが優れているとか劣っているとかいう話ではありません。世の中にはすごいひとはいくらでもいます。それでもなお、自分を見失わずに・見捨てずに着実に成長していくには、まず自分が何者なのかということを把握することが必要だと思い、そのことをお伝えしたかったのでした。

2019年2月3日

天王洲アイルのIMA Galleryへ、落合陽一さんの「質量への憧憬」展を観に行く。彼の書籍『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』同様に、非常にcontroversialでありつつも、とても魅力的。いろいろ思うところがあるので、あとで感想をブログエントリとして書くかも。

浅草へ移動し、浅草神社で豆まきを見学。まずは境内で儀式を行った後、入り口近くの舞台に移動して、お稚児さん、年男・年女による豆まき。かなり盛り上がって、ちょっと怖いぐらい。お隣の浅草寺では平成中村座のみなさんによる豆まきが行われ、そっちはものすごい人だかりだったなあ。

さらに三宿のSUNDAYに移動して、「トーク&スペシャル・ライブ -アンデス写真とキャンドル・ライトの生音コラボ-イルマ・オスノ(Vo) 笹久保 伸(ギター)」を観る。アンデスの音楽ってほぼ知らなかったので、その旋律の複雑さに驚く。その後は、そのままカフェでおしゃべりしつつ飲食。

いくつか画像を制作。