Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

2018年10月5日

最近、ひたすらTikTokばかり観てる。


Twittertに書いたことを転載:

選択するという考えがそもそもダサい。脱近代の我々は、選択などしない。近代はAかBかの選択を常に迫ってくる。我々は、選択などしない。ただAであったりBであったりするだけ。生きるか死ぬか、いま決めろ!とかいわれて選択したら、結局そんなの近代でしょ。俺はただ後世の歴史家目線で生きてるだけ。

ポジションをとれ!みたいなのもダサいし、単に近代。僕らは、後世の歴史からみたら結果的にポジションをとってるようにみえるだろうけど、現在からみたら、ただ生きてるだけ。結果的にポジションをとることになってるのと、主体的にポジションをとるのとは違う。主体的とかダサい。近代的。

俺らは、単に感覚のままセンスのままにかっこいい生き方しかできないだけ。かっこよさを選択してるつもりもない。単に、生きてたらみんながかっこいいと評価するだけの話。自らかっこよさを選択などしたことがない。単に生きてるだけ。選択肢があることがダサい。他人から強いられた人生とか送らない。

選択肢があるとか、近代。他人に生き方を強いられた人生。俺たちは単に、後世の歴史から見て、一本道を生きているだけ。主体的に生きるとか、奴隷の人生。自らに囚われているだけ。他人にも自分にも囚われない生き方、それが後世の歴史家目線。モノたちが、それらだけでコミュニケーションする世界。

選択肢をできるだけすくなくすること。選択肢があるということは、歴史から外れた行いになっているということ。主体的に、合理的に選択肢を検討するなんて、そもそもが主体的でも合理的でもない。適切な歴史を選択できなかったから、相対的にマシなのを選んでるだけ。復活することのない、敗者復活戦。